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明治11年(1878)10月25日、朝まだ明けやらぬ午前3時頃から、三階橋周辺に人影が集まり始めた。夜明けと共に数が増してくる。薄明かりに浮かび上がる顔は、日に焼けた百姓の顔だが、長閑に田を耕している時の表情ではない。緊張と興奮からこわばった顔に、険しく怨嗟を含んだ目がらんらんと光っている。後から後からわき出すように人が集まる。昼近くになると4,000とも5,000とも思われる農民が、この年に出来たばかりの橋周辺に頓集していた。
声高に話す声が聞こえる。「御一新で少しは生活が楽になるかと思ったが、3割も年貢が増える」「うちの村は5割増しだ」「請書を出さなきゃ、鎌止だと。手塩に掛けた稲が腐ってしまう」「天子様のお役人だという安場が県令になって、下々の声も聞かず勝手な事を・・・」「こうなりゃ、今日名古屋へ来る天皇様に俺たちの声を直に聞いて貰おう」。話されているのは、地租改正への怨念ばかりだ。
興奮がいや増す群衆のなかで、痩身だががっしりとした初老の男が必死に声を掛けている。林金兵衛だ。「今まで東京の地租改正局などへ、一生懸命請願して地租引き下げを交渉してきた。ここで直訴をしては今までの苦労が水の泡になる・・・」群衆は聞く耳を持たない。
明治9年(1876)、県令が安場になって以来、高圧的で強引に地租改正が進められ、この年の春から繰り返してきた東京への陳状も成果が出ていない。百姓達が天皇に直訴をと息巻く気持ちはもっともだ。
しかし、強引に事を運べば血を見るのは明らかだ。2年前の明治9年(1876)12月には、伊勢で地租改正に反対する農民が蜂起し愛知県西部にも波及、大阪・名古屋の鎮台兵が出て鎮圧、罰金刑も含めると50,000人の処罰者を出している。前年(1877)2月には薩摩の西郷が20,000の兵を率いて蜂起したが、新政府軍に敗れている。
殺気だった群衆のなかでは強硬論が支持され、穏健論は敗北主義・裏切りとレッテルを貼られて通りにくいが、金兵衛は必死に説得を続けた。ついに「俺の命と家財を抵当にする。もし、自分が十分尽力しないと思ったなら殺すなり家を焼くなり勝手にしろ」と叫んだ。ここに至って百姓達もしぶしぶ承知し、家へと帰り始めた。
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