理不尽な地租は飲めぬ
三階橋に農民が集結

 明治新政府は財政基盤を確立するため、それまでの米の現物により納付していた年貢制度から、土地の評価額を決めその3%を現金で徴収する地租制度への転換を図った。しかし、評価はそれまでの年貢を下回らないという方針であり増税となるため、各地で地租改正反対運動が起きた。
 愛知県では春日井郡で反対運動が根強く繰り広げられ、明治11年に天皇が名古屋へ向かうときに直訴しようと多くの農民が三階橋に集結したこともあった。一時期は一揆寸前まで緊張が高まったが、尾張徳川家の援助で終結した。

    4~5,000人が三階橋に   地租改正反対運動と林金兵衛

4~5,000人が三階橋に
 明治11年(1878)10月25日、朝まだ明けやらぬ午前3時頃から、三階橋周辺に人影が集まり始めた。夜明けと共に数が増してくる。薄明かりに浮かび上がる顔は、日に焼けた百姓の顔だが、長閑に田を耕している時の表情ではない。緊張と興奮からこわばった顔に、険しく怨嗟を含んだ目がらんらんと光っている。後から後からわき出すように人が集まる。昼近くになると4,000とも5,000とも思われる農民が、この年に出来たばかりの橋周辺に頓集していた。

 声高に話す声が聞こえる。「御一新で少しは生活が楽になるかと思ったが、3割も年貢が増える」「うちの村は5割増しだ」「請書を出さなきゃ、鎌止だと。手塩に掛けた稲が腐ってしまう」「天子様のお役人だという安場が県令になって、下々の声も聞かず勝手な事を・・・」「こうなりゃ、今日名古屋へ来る天皇様に俺たちの声を直に聞いて貰おう」。話されているのは、地租改正への怨念ばかりだ。

 興奮がいや増す群衆のなかで、痩身だががっしりとした初老の男が必死に声を掛けている。林金兵衛だ。「今まで東京の地租改正局などへ、一生懸命請願して地租引き下げを交渉してきた。ここで直訴をしては今までの苦労が水の泡になる・・・」群衆は聞く耳を持たない。

 明治9年(1876)、県令が安場になって以来、高圧的で強引に地租改正が進められ、この年の春から繰り返してきた東京への陳状も成果が出ていない。百姓達が天皇に直訴をと息巻く気持ちはもっともだ。
 しかし、強引に事を運べば血を見るのは明らかだ。2年前の明治9年(1876)12月には、伊勢で地租改正に反対する農民が蜂起し愛知県西部にも波及、大阪・名古屋の鎮台兵が出て鎮圧、罰金刑も含めると50,000人の処罰者を出している。前年(1877)2月には薩摩の西郷が20,000の兵を率いて蜂起したが、新政府軍に敗れている。

 殺気だった群衆のなかでは強硬論が支持され、穏健論は敗北主義・裏切りとレッテルを貼られて通りにくいが、金兵衛は必死に説得を続けた。ついに「俺の命と家財を抵当にする。もし、自分が十分尽力しないと思ったなら殺すなり家を焼くなり勝手にしろ」と叫んだ。ここに至って百姓達もしぶしぶ承知し、家へと帰り始めた。

    明治9年12月に三重県で発生した地租改正反対一揆の様子を描いた浮世絵
『三重県暴徒一覧』  「御届 明治10年1月8日」の記載あり




地租改正反対運動と林金兵衛
  ◇林金兵衛とは
 林金兵衛は、和爾良(かにら)村(現:春日井市)の豪農だ。安政5年(1858)には水野代官所の総庄屋となり、藩と農民の間で苦労を重ねている。幼くして国学を学び、明治維新の時には百姓を集めて草薙隊を組織し、藩の田宮如雲に従い藩兵と共に甲州まで出陣。明治4年(1871)に草薙隊を解散した後は、隊員達と各務原の開墾に従事するなどした。7年(1874)に第3大区の区長となり地租改正の郡議員長にもなったが、安場県令の手法に反発して辞任している。


林金兵衛君碑 春日井市

◇地租改正とは
 地租改正は、新政府が税収の安定を図るため、明治6年(1873)に地租改正条例を公布した事から始まっている。それまでの収穫に応じての年貢を、土地の評価額を定めてその3%を税として金納する方式への変更だ。
 土地の測量をして面積と所有者を確定し、その土地の生産力を評価して時価を定めるのだが、もともと「以前の年貢を下回らない」と言う方針であったので、ほとんどが増税になるように評価された。
 愛知県では改正作業が進まず、8年(1875)末に県令の鷲尾隆聚(つむたか)が罷免され安場保和に変わった。安場は改正担当の職員を大幅に入れ替え強引に作業を進めた。春日井郡においては松明を灯して夜も作業をさせるなどして反発を買い、評価に納得しない者には「国賊だから真っ裸にして海外に追放する」などと脅している。坪あたりの予想収穫量が過大とする農民の代表が、実際に坪刈りをして収穫量を証明しようとすると、役所の示した収穫量に同意するまでは一切の刈り入れを禁じている。

 金兵衛は地域のリーダーとして書類の提出や受け取りの拒否などにより粘り強く抵抗、11年(1878)からは福沢諭吉の知遇を受け、そのアドバイスのもと東京の地租改正局への陳情などを繰り返していた。そのようななかで、10月25日、地方巡幸で来名する天皇へ直訴しようとする動きが、業を煮やした農民の間に起きたのである。

◇その後の地租改正反対運動
 この後、11月24日には、東京へ向かった400人ほどの農民が浜松で警察に阻止されている。万策尽きた農民たちは竹槍を用意し鐘を突き鳴らして集会を開くようになり、県は臨時交番を設置して牽制した。
 農民と県の対立は、旧藩主徳川慶勝が農民救済のため、金50,000円を貸し付る事により明治12年(1879)3月2日に妥結し、3年を超える農民闘争は終結した。
 
◇竹槍で どんと突き出す 2分5厘
 地租改正をめぐり、茨木・三重・愛知・岐阜・堺県で一揆が発生したが、春日井郡の闘争は長期にわたり執拗な抵抗を繰り返し、引き続いて起きた自由民権運動にも影響を与える活動として大きな意義を持っている。
 地租の税率は3%だったが、各地で起きる反対運動を懸念した政府は2.5%に引き下げた。当時「竹槍で どんと突き出す 2分5厘」という言葉がはやったという。




 2025/12/19