藩内黄檗宗の触頭
東 輪 寺
 境内はきれいに整備され比較的新しい建物が多いが、江戸時代前期に2代藩主光友により創建され、藩内黄檗宗の触頭という格式を誇った寺である。江戸時代に行なわれた大施餓鬼供養では多くの参拝者が集まり賑わっていた。


    藩内黄檗宗の触頭   大施餓鬼供養で賑わう   境内に建つ 芭蕉の句碑



藩内黄檗宗の触頭
   護国山東輪寺は黄檗宗の寺である。
 黄檗宗の歴史は仏教各派の中では比較的新しく、1654年に来日した明の僧侶 隠元禅師が開宗した。臨済宗・曹洞宗と並び日本三禅宗の一つであるが、中国では臨済宗系の禅宗であったことから、現在共同でインターネットに「臨黄ネット」というホームページを開いている。なお、いんげん豆は隠元禅師が伝えた事からその名が付けられたという。
 
 寺伝では、東輪寺は延宝2年(1674)に2代藩主光友により創建された。一時期曹洞宗へ変わったが再び黄檗宗に戻り、宝永6年(1709)には藩から御目見得を許され藩内黄檗宗の触頭に任命された。

 『名古屋府城志』では、延宝8年(1680)に橘町で万福寺として創建されたが、その後住職が退去して廃寺となった。このため、当時曹洞宗であった万松寺に所属し、名も高顕寺に改められた。その後、今の地で東輪寺として再興された。

 明治24年の濃尾地震で伽藍は倒壊したが復興された。しかし太平洋戦争の空襲によりすべて焼失し、平成7年に現在の本堂が再建された。


{尾張名所図会』




大施餓鬼供養で賑わう
 毎年7月15日に行われる大施餓鬼供養には多くの参拝者が訪れた。
 お盆前にあちらこちらに帳面を配って戒名を記入させ、寺ではそれを掛け物に転記して方丈の縁に掛けた。その前に供物を供え香炉を置き、参拝者が焼香をした。庭には矢来で囲んだ中に色々な壇を設けて飾り、仏殿の前には高い壇を設けて、その上で僧侶が施餓鬼供養を行った。
 施餓鬼供養の本来の姿を伝える、他宗派には無いしつらえであったという。
 
東輪寺 大施餓鬼 門前のてひ
 『尾張年中行事絵抄』
 
東輪寺 大施餓鬼 仏殿前庭之図 『尾張年中行事絵抄』




境内に建つ 芭蕉の句碑
 境内に「粟稗に貧しくもあらず草の庵」と刻まれた芭蕉の句碑が建っている。

 天明5年(1785)に建てられたが戦火で失われ、昭和40年に再建されたものだ。
 『葎の滴』には、杉村(現:北区)の解脱寺で詠まれた句で同寺に句碑があるが、東輪寺にどういう縁で句碑があるかは不明と書かれている。



 2021/08/30